イマニェル・カント『 純粋理性批判 』『経験有無の壁』           

Kant gemaelde 1.jpg


イマニェル・カント:『純粋理性批判』:予告篇

 

1724年4月22日、ドイツの哲学者『イマニェル・カント』は、東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルクである

(「王の山」の意味)で生まれました。

ここは、1736年に数学者レオンハルト・オイラーが「ケーニヒスベルクの橋」問題を提起したとしても有名です。

第二次大戦後、戦勝したソビエト連邦に接収され、カリーニングラードと改称され、ロシア人の街となりました。

現在は、ロシアの飛び地とし、ロシア海軍のバルチック艦隊の拠点となっています。(下記地図をクリック願います。)



カントは、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三つの三批判書を書きました。

この『批判』とは、アラ探しではなく「批判=~について考える」という意味のようです。

●カントの明言08.内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。

●カントの明言17.

1.私は何を知ることが可能なのか。

2.私は何を成すことが可能なのか。

3.私は何を望むことが可能なのか。

4.人間とは何であるか。

第一の問いに答えるのは形而上学であり、

第二の問いには道徳であり、

第三の問いには宗教であり、

第四の問いには人間論である。

結局これらすべては人間論に含ませてよいであろう。

これらの問いに対し、それぞれの書で検討しています。

「私は何を知ることが可能なのか」 ⇒ 『純粋理性批判』

「私は何を成すことが可能なのか」 ⇒ 『実践理性批判』

「私は何を望むことが可能なのか」 ⇒ 『判断力批判』



以下、カントの名言:格言を交えつつ『純粋理性』『実践理性』『判断力』について学んでいきたいと思います。



● カントの明言17.
1.私は何をすることができるか。
2.私は何を為すべきであるか。
3.私は何を希望してよいか。
4.人間とは何であるか。
第一の問いに答えるのは形而上学であり、
第二の問いには道徳、
第三の問いには宗教、
第四の問いには人間論が答える。
結局これらすべては人間論に含ませてよいであろう。

● カントの明言08.内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。





★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

目次

★1.時代背景

1-1.古典的理性主義

1-2.啓蒙思想

「イギリス経験論」「大陸合理論」    ライプニッツ   ヴォルフ   バウムガルテン   カント

★2.純粋理性批判「私は何を知ることが可能なのか」

★3.実践理性批判「私は何を成すことが可能なのか」

★4.判断力批判「私は何を望むことが可能なのか」

 



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★1.時代背景

1-1.古典的理性主義

古典的理性主義では「神が照らす光によって法則を理解出来る」、つまり、「神が等しく人間に分け与えた理性を正しく使えば理性法則を理解することができる」とされていました。





1-2.啓蒙思想

古典的理性主義に対し、啓蒙思想とは、17世紀から18世紀にかけて生じた近代哲学の認識論であり、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想です。

啓蒙思想には、「イギリス経験論」(イギリスを中心とする経験主義的傾向が強い議論)と、「大陸合理論」(欧州大陸を中心とする理性主義《合理主義》的性格が強い議論)とがありました。

★「イギリス経験論」においては、「人間は経験を通じて様々な観念・概念を獲得する」と考えます。

この「経験」とは、「「私的ないし個人的な経験や体験」というよりもむしろ、「客観的で公的な実験、観察」といった意味です。

17世紀後半以降、ホッブズ( 1588年~1679年 )、ロック( 1632年~1704年 )、ヒューム( 1711年~1776年 )が展開した経験論的な認識論、道徳哲学、理性・自然法・社会契約的な政治思想が、イギリス及び西欧における啓蒙思想の幕開けとなりました。

Thomas Hobbes (portrait).jpg John Locke.jpg David Hume.jpg

★これに対し「大陸合理論」は、「人間は生得的に理性を与えられ、基本的な観念・概念の一部をもつ、もしくはそれを獲得する能力をもつ。」と考えていました。

また、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理を捉え、そこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされていました。

「大陸合理論」は17世紀以降、フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマルブランシュなどによって継承・展開されました。

Frans Hals - Portret van René Descartes.jpg Spinoza.jpg Gottfried Wilhelm von Leibniz.jpg Johann Georg Wille - Portrait of Christian Wolff - WGA25767.jpg ニコラ・ド・マルブランシュ


1-3.啓蒙主義の中でのカントの位置づけ

カント(1724年~1804年 2月12日 の上流の系統には、ライプニッツ(1646年~1716年)、ヴォルフ( 1679年~1754年 )、そして同時代のバウムガルテン( 1714年~1762年 )がいます。

ライプニッツは哲学、数学、科学など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られ、また政治家であり、外交官でもありました。

17世紀の様々な学問(法学、政治学、歴史学、神学、哲学、数学、経済学、自然哲学=物理学、論理学等)を統一し、体系化しようとしました。

彼の学風は、デカルト由来の大陸合理論の流れのなかに位置づけられますが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、「精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論」とはまったく異なる、「世界を、世界全体を表象するモナド(=不可分単一空間?)の集まりとみる存在論」から、合理論、経験論の対立を解消しようとしたとも言えます。



カントは、17世紀に始められた「イギリス経験論」と「大陸合理論」の総合を行った、とする見方がなされています。

ドイツ

ドイツの啓蒙思想は、クリスティアン・ヴォルフ等によって整備され、イマヌエル・カント等によって発展された他、ゴットホルト・エフライム・レッシングのような人物も加わりつつ形成された。

18世紀に入り、当時フランスやイギリスに比べ遅れをとっていたドイツにおいてもこの考えを普及し、トマジウス、メンデルスゾーンやヴォルフやゴットシェートらを輩出。

ヴォルフは理性と啓示(神の教え)に矛盾がないことを説き、人々に人間としての理性でもって見る考え方を主張。ゴットシェートは、この影響を受け、ヴォルフのように啓示と理性を並存させるのではなく、啓示の内容は理性へと還元され、理性によって解明されうると考えた。

啓蒙思想に触発されたカントも「責任ある自己」の必要性と根拠付けを行った。

カントによれば、Aufklärungとは「人間が自分自身に責任を持ち、未成年の状態から抜け出ることである。」そして、他人に依存することなく自身の悟性を使用する決断と勇気を身につけ、最後に「知ることを敢えてせよ!自己自身の悟性を使用する勇気を持て!」という標語に帰結されるとしている(カント"Was ist Aufklärung?"『啓蒙とは何か?』より)。

この標語には、まず個人が自分自身の知性の行使に勇気をもつようになって初めて社会が改良され得るとの考えが背景にある。

近隣諸国に経済的・文化的に遅れをとっていたドイツにおいて、啓蒙思想はより強く表現されたのである。

一方で啓蒙思想は、国家・社会・宗教などあらゆるものに対して理性一辺倒主義で、数学的で平板的な合理主義的なのが特徴であった。

また、啓蒙思想に触発されたカントも、やがて批判哲学における著作(『純粋理性批判』など)でやがて理性の限界を論ずるようになり、啓蒙思想の超克を計った。

しかし、この「自らの悟性を使用する決断と勇気」のあり方は、カント以降にドイツ観念論などの19世紀のドイツ哲学の課題であったともいえる。



クリスティアン・ヴォルフ(1679年1月24日 - 1754年4月9日)

ライプニッツからカントへの橋渡し的存在。

彼の哲学は啓蒙思想の代表の一つであり、ドイツの大学で17世紀から18世紀にかけて講じられた、いわゆる講壇哲学の基礎をなした。

17世紀後半のドイツの形而上学者は、多くヴォルフの弟子筋にあたり、彼らの著述は18世紀半ばまで広く教科書として使われた。

ヴォルフはまたカントに影響を与えた。カントはヴォルフ学派の体系性をそれとしては高く評価しており、自身の批判によって「独断論」と位置づけたヴォルフ学派への批判を行い形而上学の再構築を図ったが、大学での講義では、自著ではなくヴォルフ学派の哲学者たちの形而上学の書を教科書として指定していた。

近世のドイツにおいて、こうした中世のスコラ哲学におけるラテン語の哲学用語がドイツ語の哲学概念へと置き換えられていくことになり、 それに伴って、それまでのスコラ哲学における伝統的な哲学体系なとは異なった新たな形での哲学の体系化が進められていくことになるが、 こうしたドイツにおける新たな哲学体系の確立は、近世ドイツの哲学者であるクリスティアン・ヴォルフ(Christian Wolff、1679年~1754年)を中心とするヴォルフ学派の手によって進められていくことになる。

ヴォルフ学派において、哲学という学問は、認識論と論理学と心理学、純粋な論理的知識を扱う理論哲学と、倫理や道徳といった実践的な事柄を扱う実践哲学といった様々な学問体系の区分へと細分化されていくことになる。



アレクサンダー・ゴットリープ・バウムガルテン(1714年7月17日 - 1762年5月27日)

、神聖ローマ帝国・プロイセン王国出身の思想家。

ライプニッツからの伝統を受け継ぎ、「美学」の創始者として知られる。

、知性ではなく、感性を扱う学である。この定義に従えれば、バウムガルテンが提唱したのは「美学」ではなく「感性学」と言うべきである。





● カントの明言47.啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。

「純粋理性批判」が書かれた18世紀のヨーロッパでは、近代科学の最初の波が勃興していました。

科学を使えば世界の全てを説明することが可能だ、とする啓蒙の時代の始まりです。

古典的理性主義に対し、啓蒙主義では「人間の理性が暗闇を照らす」としています。

つまり、人間には元から備わっている認識の力がある、ということです。





そんな中で、西欧人たちは次の二つの大きな難問に突き当たりました。

1.科学は本当に客観的な根拠をもっているのか?

2.科学で世界の全てが説明できるとすると、人間の価値や自由、道徳などの居場所はあるのか?

このような大きな難問にカントが出した答えが『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』です。





★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

2.純粋理性批判「私は何を知ることが可能なのか」

「純粋理性」とはカントが作り出した言葉で、人間に元から備わっている認識の力のことです。

●カントの明言02.科学とは体系化された知識で、知恵とは整理された生活である。

難題1.科学は本当に客観的な根拠をもっているのか?

「科学」領域には「客観的な根拠」が持つものと、持たないものがある、として、その理由を『純粋理性批判』で徹底的に論じました。

「合理的な答えの出る領域と、そういう答えがもともと出ない領域とがある。」 だから、哲学を真に有効な知として再生しようとしたのです。

「人間が何を知りえて、何を知りえないか」

例えば、「宇宙は無限か、有限か」といった問いは、どんなに考えても答えは出ないといいます。

宇宙に時間的な始まりがあるとすると、その前には時間が存在しないことになり、いかなる出来事も生じず宇宙は誕生しないことになります。

逆に宇宙に時間的な始まりがないとすると、現在までに無限の時間が経過したことになりますが、無限の時間とは経過し終えないもののはずですから、現在という時間は決して訪れないことなります。

このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾をアンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じて理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせます。

それと同時に、人間の理性で答えを出しうる領域があることも明らかにしました。


「そもそも人間は何を、どのように認識しているのか、そのとき理性はどのように働くのか」をカントは解明しようとします。

こういう問い方を「認識論」といいますが、カントは人間の認識の基本構造を明確にすることによって、 きちんとした根拠によって共有しうる知の範囲を限定し、そこを逸脱すれば共有できる答えは出ない、ということを示そうとしました。

「理性」が本来の限界を超えて推論を続けると必ず誤謬に陥ってしまいます。

「理性」や科学的思考への過信は回避しなければならなりません。

カントは、その根源的な課題に向き合うために、「認識が対象に従うのではなく対象が認識に従う」という常識を覆す視点を打ち出します。



神の理性を使う=人間認識が対象に依存する古典的理性主義





★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

加えてイギリス経験主義も批判しています。

純粋理性批判は、人間理性の有効な範囲を定めようと試みました。

なぜそのような作業が必要だったのでしょうか。

当時、ロック、バークリー、ヒュームなどのイギリスの経験主義が影響力を増していました。

経験主義とは、古典的理性主義のように、神から分け与えられた理性を正しく使えば、世界の理性法則を理解できるという考えを否定します。

そして、我々人間が得られる認識は、同じ経験をした人が、そうだったと認める程度だと考えました。

例えば、リンゴは赤いというのは、それを見たことがある(経験したことがある)人たちの間で、そうだと認める程度のものだということです。つまり、神の理性が認識できるような、誰もが認める絶対的真理を、人間は認識することは不可能であると考えました。





カントは、ロックらの経験主義に下記のような疑問を持ちました。

人間は所詮、経験的認識しか持ち得ないのならば、なぜ「1 + 1 = 2」のような数学的認識や、ニュートンの物理法則などが成立するのだろうか?

カントは経験主義に基本的に共感はしたのですが、ここだけは納得できなかったのです。

そこでカントは下記のように考えました。

人間理性に認識しやすい形で現れてくる「現象界」に限り、理性的認識が可能である。 ⇒ 数学的認識や物理法則など。

「現象界」とは関係のない、人間が介在し得ない物だけで成立する「物自体界」については、経験的認識しかできない



人間理性の範囲を「現象界」に限定し、人間認識に対象が依存するとするカントの考え方



そして、認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼びます。 私達は、「物自体界」は経験出来ず、経験できるのはこの「現象界」だけだとします。

経験 ⇒ 認識 ⇒ 「現象界」





★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

3.実践理性批判「私は何を成すことが可能なのか」

人間は、「物自体界」を理論的に認識することは出来ません。しかし、人間は実践的に物自体と関わっています。ここから実践的形而上学が可能となる、というのがカントの発想です。

その過程は次の通りです。

感性 ⇒ 悟性が加工 ⇒ 現象界

感性が物自体からデータを入手し、それを悟性が加工して現象界が生まれます。

「感性」は、多様な感覚的素材を「時間」と「空間」という形式を通して受容します。

カントは「時間」と「空間」は客観世界にあるのではなく、私たちの認識主観にあらかじめ組み込まれている「形式」だと考えます。

いわば、私たちは「時間」「空間」という眼鏡をかけて世界を認識しており、その規格が共通だからこそ科学や数学が客観性をもつということです。

しかし、それだけでは認識は成立しません。

もう一つの共通規格である「悟性」が、そうした感覚的素材を量、質、関係、様態といった「カテゴリー」に当てはめて統一することで、初めて万人が共有できる「知」が成り立つ、と言います。

人間は現象界の傾向性に流され、欲望のまま好き勝手に振る舞っていますが、ただそれだけの存在ではありません。

人間の理性は物自体の世界に属しているからです。

そしてこの物自体の世界から訪れるメッセージこそが道徳法則にほかなりません。

これが『実践理性批判』のコアとなる発想です。









●カントの明言42.すべての知識は経験に基づく。

●カントの明言51.われわれは、光のもとで暗闇を、幸福のもとで悲惨を、満足のもとで苦痛を思い起こすことはまれである。
しかし、その逆はいつもである。

●カントの明言31.成功に至る第一歩は、自分が心で何を望んでいるかを見つけ出すことです。
それがはっきり分からないうちは、何を期待しても駄目でしょう。

AIやIT技術の発展で新たな形の「科学万能主義」が席捲し始めている現代にこそ「純粋理性批判」を読み直す価値がある

といいます。







★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

4.判断力批判「私は何を望むことが可能なのか」 ⇒ 『判断力批判』

カントは、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付け、これまでの哲学の誤りは全てこの

「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、これまで哲学がぶつかってきた難問の解決を試みていきます。

認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとします。

そして、判断力を感性と悟性の中間に位置し、両者を結びつける能力とします。

いわば、私たちは「感性」と「悟性」という共通のメガネをかけていて、このメガネの性能を詳しく分析していけば、共通理解の土台を確保できると

いうわけです。

この共通のメガネでとらえられない問いは、人間の理性では決して答えの出ない問題だとすることで、それまでの哲学が追究してきた

「神の存在」「魂の不死」「宇宙の全体」といった問題を一気に始末してしまうわけです。



これらの議論の後、カントは一転して、この共通のメガネでは決してとらえられない「物自体」の世界に「人間の自由の根拠」を求めていくわけですが、

この議論は、現代人の目からみるとややアクロバティックにみえるかもしれません。

ですが、「人間の尊厳」をあくまで理性の力で救い出そうとするカントの強靭な思考には心から敬意を表したいと思います。



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

「人間は何を知りうるのか」「人間にとって自由や価値とは何なのか」等、【知識論】や【人間論】、【道徳論】などを学んでいく過程で、 理性の能力の限界を厳しく吟味すると「神の存在」や「魂の不死」は証明できないことが明らかになります。

「ではなぜ古来人間は、神や魂について考え続けてきたのか?」 

カントは、その動機の裏には「かくありたい」「かく生きたい」という「実践的な関心」があった、とします。

「神の存在」「魂の不死」を前提としなければ道徳や倫理は全く無価値なものになると考えたカントは、それらを「認識の対象」ではなく、 実践的な主体に対して「要請された観念」だと位置づけています。

この立場からカントは、科学によって居場所を失いつつあった価値や自由といった人間的な領域を基礎づけようとしました。

★自由

この2年ほど、AIやIT技術の発展で新たな形の「科学万能主義」が席捲し始めていることを受け、 「私たちは本当に自由な選択を行っているのだろうか?

「むしろビックデータやAIによるデータ解析に操られているだけではないのか?」という問いにあらためて直面させられていました。

その時にあらためて思い起こされたのがカントによる「自由」についての議論です。



「頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、ますます新たな驚きと畏敬の念をもって心を満たす二つのものがある。

それは、我が頭上の星を散りばめた天空と、我が内なる道徳法則である」(カント「実践理性批判」より)







★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

「我が内なる道徳法則」とは。

目的

道徳の根拠を規定すること。

結論


習俗や文化ではなく、理性による定言命法が道徳の根拠。ローカルな根拠ではなく、誰でも納得できる(し、そうするほかない)普遍的な地点に根拠を置くことが必要。

カントの議論を図式的にまとめるとこう。


  • 傾向性(欲求)→ 格率 → 仮言命法
    • 仮言命法は「…を望むなら、こうしなければならない」
    • 何を求めるかはひとそれぞれなので、仮言命法を道徳の根拠にすることはできない
  • 理性 → 普遍的な道徳法則 → 定言命法
    • 定言命法は「…を望むかどうかに関わらず、こうしなければならない」
    • 理性で考えれば何が正しいかは誰でも分かるので、定言命法が道徳の根拠となる

以下、本文の流れに沿ってみていきます。


格率と普遍的立法


欲求に基づく行為の原則(格率)は道徳の根拠とならない


道徳の根拠を快や欲求に置くことはできない。なぜならそれらは結局のところ自分の幸福を求めているから。

自分の幸福を求める行為の原則を、ここでは格率(maxim、マキシム)と呼ぶことにする。

格率は主観的なものであり、普遍性がない。なので道徳法則と見なすことはできない。

格率を抽象化した普遍的立法(定言命法)が道徳の根拠


格率は幸福を目的とする。そこで、格率から目的と取り除くとどうなるか。純粋な法則の形式だけが残る。この形式を普遍的立法と呼ぶ。

普遍的立法は、理性の働きによって、普遍的な道徳法則を自らに与えることができる(意志することができる)。基本的に理性は人間であれば誰でも備えているので、理性をきちんと働かせれば、誰でも道徳法則を自分自身に課すことができる。

自分の行為の法則を、つねに普遍的立法にかなうように整え、これを自分に課して行為すること。こうした自律的な行為だけが、ただ道徳的といえる。

君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

[注]純粋理性は、それ自体だけで実践的であり、我々が道徳的法則と名づけるような普遍的法則を(人間に)与える。

厳密に道徳的な行為をすることはできない…人間だもの


カンの鋭い方なら気づいていると思うが、私はこれまで道徳法則と言っておきながら、それを命令形(命法)で表現してきた。「もしそれが普遍的なら、わざわざ命令形にする必要なんてないんじゃないか?」と思うはずだ。

ただ、私たちは人間である以上、欲求を完全に克服することはできない。それができるのは神のような存在だけだ。

実際には自分の行為の法則である格率を普遍的な道徳法則と一致させることはできない。しかしそれは行為が道徳的かどうかを判断するための基準として、また、行為のよりどころとしての意義をもっている。

道徳法則に従わないって?そんなことない


次のように思うひともいるはずだ。定言命法だか何だか知らんが、そんなのは関係ない。私は自分のやりたいことをする。同じようなひともいるはずだ。なのにどうして皆が道徳法則に従うというような風に言えるのか、と。

それは簡単だ。私たちは道徳法則を尊敬している。このことは明らかで、疑うことはできない。この尊敬が動機となって、私たちは自分たちの行為を道徳法則にかなうようにするのだ。

徳福一致のアポリア(難題)


道徳法則は格率とは異なり、幸福を目的とするものではない。というよりも、道徳的に生きることは幸福となることに反する。道徳と幸福の両方を達成すること(徳福一致)は、現実世界では成立することはない。現実世界は正直者がバカを見る世界なのだ。

このことは、道徳法則にとって大きな危機だ。いくら道徳法則を尊敬しているからといって、幸福が同時に達成されないようでは、理性が道徳を追求する理由がなくなってしまう。なぜなら理性は徳福一致を最も善いこと(最高善)とみなすからだ。

しかし徳福不一致は見かけ上の矛盾でしかない。この矛盾は徳福一致を現実世界の法則と考えることから生まれるのであって、そうやって考えること自体が間違っているのだ。徳福一致は悟性世界(理念的な世界)の法則であり、そう見なすからこそ意義があるのだ。

3つの「要請」


以上のこともあるので、ここで私は3つの「要請」を置いておきたい。これは私の道徳論を支える重要な考え方なので、よく聞いてほしい。

  1. 自由
  2. 魂の不死
  3. 神(イエスではなく、悟性世界の原因としての)

自由


さっき私は、人間は傾向性に規定されており、それを完全に克服することはできないと言った。それは確かにそうだ。矛盾しているじゃないかと思うひともいるかもしれない。しかしそういうことではない。ここでは次のように考える。私たちが道徳的に行為できるとすれば、そのためにはどのような条件が必要か、と。この順序が大事だ。

ひとつは、自分に道徳法則を課すことがある。道徳法則を自律的に課すことができなければ、道徳も何もあったものじゃないからだ。

確かに私たちは、自分の意志が欲求によって左右されることを知っている。しかし同時に、自分の意志が自然法則とは異なる条件によっても規定されており、自然世界の因果関係とは異なる秩序をもっていることもまた知っている。もしそうでなければ、道徳という概念そのものが意味をなさないはずだ。

私たちは、傾向性に完全に流されているわけではなく、自制心をもっており、自分で何が善いかを判断し、それを行うことができる。この条件を私は「自由」と呼びたい。世界が自由であるとは言えないが、意志が自由であるとは言えるはずだ。

カントの自由論を「一切は構造によって規定されているのに」的な言い方で批判するのはアンフェアです。なぜならカントは自由を現実世界の法則として考えるのではなく、私たちの意志を部分的に規定するものとして捉えていたからです。道徳を欲求と克己のバランスで論じるからこそ、カントの言い方にはなるほど感があるわけです。「脳・構造・社会が規定している」論は典型的な批判ですが、哲学のプロセスをブルドーザーで平地にする鈍感さを感じずにはいられません。

魂の不死


次に要請されるのは、魂の不死だ。

私たちの意志が普遍的な道徳法則を自分に課すことができれば、それは完全に道徳的なものになる。しかしこれは現実世界では不可能だ。私たちはどれだけ頑張っても傾向性を無くすことはできないので、意志が100%自律的になることはできないからだ。

しかし私たちの理性が徳福一致を目指すことも確かだ。さきに私は、徳福一致は現実世界についてではなく、悟性世界についてのみ当てはまることだと言った。つまり現実世界では徳福一致を目指すことしかできない。この「無限への進行」は理性にとって必然的だ。

しかし「無限への進行」は、私の人格が、その主体として無限に存続することを必要とする。人格が道半ばで消滅してしまえば、「無限への進行」はそこでストップしてしまうからだ。このことから私の人格が永久にあり続けること、言いかえれば魂の不死が要請される。


最後に、神の要請だ。

徳福一致はただ悟性世界においてのみ可能となる。これは自然世界とは異なるものであり、それとは異なる原因をもつ。この原因を私は神と呼びたい。なので神といっても主イエス・キリストのことではないし、ましては「神が自然世界を造った」というふうには考えない。

くどいかもしれないが、自由も魂の不死も神も、現実世界を規定する条件ではない。そうではなく、これらは、徳福一致を目がける理性がどうしても要請せざるをえないものだと考えなければいけないのだ。

道徳教育が大事


道徳法則を目指すことができるようになるためには、子供の頃に道徳教育を行うことが効果的だ。

とはいえ、子供に「さあ道徳法則を目指せ!!」と言ってもそれはムチャだ。まずは道徳法則を目指すことの利益や不利益を示して、関心を向けさせるのが効果的だ。

その後、子供に純粋な道徳的動因を教育する必要がある。そうすることで子供は自分の理性で何が正しいのかを吟味し、判断することが出来るようになるはずだ。



まとめ

本書でのカントの議論で大事なのは以下のポイントです。

  • 何が正しいかは理性で考えれば分かる
  • 道徳法則は理性が課す
  • 傾向性の克服(=克己)が必要
  • 完全には克服できないので100%道徳的な行為を行うことはできない
    • でも道徳法則は目がけるべき目標として役立つ
  • 道徳法則には3つの要請がある

    • 自由、魂の不死、神
    • これらは道徳法則を目がける理性が必要とする条件
    • なので「現実に人間は自由である」とか「神が存在する」ということではない

  • 道徳教育が必要
    • アメとムチ

意義

道徳の根拠を宗教や文化から、理性へと置き直したこと。前者は部分的な人びとにしか受け入れられないけれど、後者はキリスト教やヨーロッパの垣根を超えて共有されるはずだとカントは考えました。

論点


哲学的なコンテクストで考えると、以下のようなものが論点になってきました。

  • 理性で考えれば何が正しいのか分かるのか?
    • 一定程度までは言える
    • 問題は絶対的な解答があるのかどうか
  • 「要請」は本当に有効か?
    • 絶対的な解答を置くから問題になるだけでは?
    • 参考:ヘーゲルはこれを「ずらかし」(問題の引き延ばし、先送り)と呼びました(『精神現象学』)
  • 単にそうあってほしいだけでは?
    • 世界にうらみつらみがあるから「本当の世界」を空想するだけ








★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

『純粋理性批判』 『実践理性批判』 『判断力批判』に対する評価

1. 『純粋理性批判』のポイント

2. 『実践理性批判』のポイント

3. 『判断力批判』のポイント

3.1. 判断力批判の失敗

4. 判断力批判からドイツ観念論へ

1.『純粋理性批判』のポイント

人間は物自体を認識できない。人間が認識するのは現象だけだ。そしてこれが科学的知識の客観性と普遍性を保証する。 これが『純粋理性批判』の要点でした。

感性が物自体からデータを入手し、それを悟性が加工して現象界が生まれます。人間が認識できるのはこの現象界だけです。

しかし悟性の加工のところで現象には客観性がそなわり、こうして科学的知識は普遍性を保証されたのでした。「なぜ数学が自然現象に適用できるのか」という謎も、カントの発想によれば一気に解決します。

Left Caption 人間は外界をありのままで認識できない、しかしだからこそ普遍的な科学が成立する。こう考えるところが特徴。

一方で、概念を使って物自体を語ろうとすると悪しき形而上学が生まれるとカントはいいます。物自体については何も語り得ないのだから、理論的認識は現象界にとどまらなくてはならない。

こうして従来の形而上学はカントによって息の根を止められた形になりました。

2.『実践理性批判』のポイント

カントは『純粋理性批判』によって従来の形而上学の息の根を止めましたが、彼は単なる実証主義者みたいな存在だったのではありません。

むしろカントの真の目的は、新しい形而上学を自らの手で打ち立てることでした。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

3.『判断力批判』のポイント

カントは、認識主体によって構成される世界を「現象界」と呼び、私達に経験できるのはこの「現象界」だけだとします。

その上で、人間が決して経験できない世界そのものを「物自体」と呼んで認識能力が扱える範囲外に位置付け、これまでの哲学の誤りは全てこの

「現象界」と「物自体」の混同から生じるとして、これまで哲学がぶつかってきた難問の解決を試みていきます。

いわば、私たちは「感性」と「悟性」という共通のメガネをかけていて、このメガネの性能を詳しく分析していけば、共通理解の土台を確保できると

いうわけです。

また、この共通のメガネでとらえられない問いは、人間の理性では決して答えの出ない問題だとすることで、それまでの哲学が追究してきた

「神の存在」「魂の不死」「宇宙の全体」といった問題を一気に始末してしまうわけです。



これらの議論の後、カントは一転して、この共通のメガネでは決してとらえられない「物自体」の世界に「人間の自由の根拠」を求めていくわけですが、

この議論は、現代人の目からみるとややアクロバティックにみえるかもしれません。

ですが、「人間の尊厳」をあくまで理性の力で救い出そうとするカントの強靭な思考には心から敬意を表したいと思います。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

ここで問題が発生します。物自体界の道徳原理が、感性的な現象界に影響を与えることがなぜ可能なのか?

物自体界と現象界はまったく異なる原理で存在しているはず。なのにどうして両者がコーディネート可能なのか?

こういう問題の立て方がいかにもカント的なのですが(たとえば純粋理性批判でも、まったく異なる能力である悟性と感性がなぜ協調できるのかという「問題」で七転八倒)、とにかくカントは超感性界と感性界の統一という一大テーマに取り組むことになったのです。

このプロジェクトこそが『判断力批判』に他なりません。

判断力批判は純粋理性批判と実践理性批判を結合させようとしています。

なぜ物自体界の原理が現象界に適用されうるのか?カントが与えた答えは、「自然の合目的性」でした。

自然界がその底の底において物自体界の道徳法則と調和する合目的性をもっているならば、自然界と物自体界は矛盾しない。これがカントの発想です。

では自然の合目的性とはなんでしょうか?これは人間の判断力が自然のうちに読み込むものです。

判断力とは感性と悟性の中間に位置し、両者を結びつける能力でした。この判断力には大きく分けて2つの種類があります。

ひとつは規定的判断力。より普遍的な概念に、特殊な事象を結びつけていく能力です。たとえば生物の概念にそこらのイヌやネコを結びつけるような。 もうひとつは反省的判断力。これは規定的判断力とは逆に、特殊から普遍を導き出す能力です。たとえば近所のタマとミケを観察し、そこからネコの概念を生み出すような。

このうち反省的判断力のなかに「自然の合目的性」の原理が備わっています。なぜ自然の合目的性という概念が反省的判断力のしわざなのかはパッと見わかりにくいんですが、個々の自然現象を観察しそこから「自然の合目的性」という大きな概念を導き出すイメージだからです。特殊→普遍になってますよね。

自然の合目的性に当たるものとしてカントが挙げるのは、美と有機体です。美しいものにせよ有機体にせよ、明らかに目的をもって作られているように見える。単なる偶然でそのような形になったとはどうしても信じられない、と。

『判断力批判』は個々の議論がどう結びついているのかわかりにくいんですが、美や有機体の話もこうやって根本テーマと関連しているわけですね。

ここで重要なのは、いずれも判断力が外界に目的論的構造を見出しているという点。カントは「自然には目的論的構造が客観的にそなわっている」と言っているのではありません。

そうではなく、反省的判断力が自然に意味づけをしているんですね。

4.判断力批判の失敗

なぜ物自体界の原理が現象界に適用されうるのか。この問題を解決し、『純粋理性批判』と『実践理性批判』を結びつけるのが『判断力批判』の狙いでした。

それは成功しているのでしょうか?

岩崎武雄はカントの議論を批判しています。合目的性が自然の根底に客観的に存在しているのなら、上記の問題は解決できたといえるかもしれない。しかしカントにおいて、自然の合目的性は主観による意味づけでしかない。それでは物自体界と現象界の接続の問題は乗り越えられない、と。

この批判はたしかにしっくりきますよね。カントの議論を追ってるときの違和感を言葉にしてくれた感じ。

解決すべきは物自体界と現象界の接続の問題でした。いくら主観が外界に意味づけをしたとしても、物自体と現象の断絶にはまったく関係がないと思うんですよね。それはどこまでも現象の内部にとどまり、橋渡しの機能など果たせないのですから。

判断力批判からドイツ観念論へ

フィヒテ以降のドイツ観念論は、カントの『判断力批判』をここから拡張したものに他なりません。要するに自然の合目的性を客観的な原理と考えるのです。







★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

イマヌエル・カントの名言格言57選(既出のものは省略)


■「尊厳」

21.あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。
人間は、決して目的のための手段にされてはならない。

■「哲学」

29.哲学の義務は、誤解によって生じた幻想を除去することである。

40.われより哲学を学ぶべきにあらず、哲学することを学べ。

54.哲学は学べない。学べるのは哲学することだけである。

56.歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。
かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。

■「命令形」

04.汝の意志の規律が、いつの場合でも、一般に立法の原理として適用できるように行動せよ。

09.我が行いを見習えと、誰にでも言い得るよう行為せよ。

12.いかなるときも、自分の選択の原理が、一般の原理に適用できるよう、行動せよ。

■「道徳」

48.法律においては、他人の権利を侵害する時には罰せられる。
道徳においては、侵害しようと考えるだけで罪である。

57.徳にとってまず要求されることは、自己自身を支配することである。

■「宗教」

15.宗教とは、我々の義務のすべてを神の命令とみなすことである。

37.あらゆる宗教は道徳をその前提とする。

■「物自体界」

45.天才は生得の心の素質であり、これによって自然は芸術に規則を与える。

55.美には客観的な原理はない。

■「星空の輝き」

22.ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律!

23.崇高なものは我々を感動させ、美しいものは我々を魅了する。森は、夜崇高であり、昼美しい。

35.何度も繰り返し長い時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬とで心をみたすものが二つある。
私の上なる星空と私の内なる道徳法則とである。

39.それを考えることしばしばにしてかつ長ければ長いほど常に新たにして増し来る感嘆と尊厳とを以って心を充たすものが二つある。
それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳律である。

46.大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証する。

49.静かに考えるほど、湧き上がるものがあろう。
我が頭の上の天文と、我が心の中の道徳である。

■「活動」

05.暗黒のなかでは、我々の想像力は、明るい光におけるよりもたくましく働くのを常とする。

13.苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ我々は我々の生命を感じる。

53.苦しみこそが、活動の原動力である。
活動の中にこそ、我々は生命を感じる。

■「自由」

20.自由とは、すべての特権を有効に発揮させる特権である。

28.互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。

43.われは孤独である。われは自由である。われはわれみずからの王である。

44.民主政治は専制政体と変わらない。
なぜならば、民主政治とは全員がひとりの意志を無視し、時にはこれに逆らって議決し得る。
という全員ならぬ全員が、議決し得る執行権を認めるからである。

■「善行」

27.善行は、これを他人に施すものではない。
これをもって自分自身の義務を済ますのである。

32.人が財産を使うに際しては、慎重さとためらいとがある。
それは善行ではないし、手腕も能力も必要とはしない。

33.我々は動物の扱い方によって、その人の心を判断することができる。

52.努力によって得られる習慣だけが善である。

■「モード」

07.モードはいかなる内的価値もない。

14.われわれは奴隷のように社会のモードに従うだけだ。

25.モードは他の優れた人を模倣しようとする法則である。

■「品性」

10.高慢な人は常に心の底では卑劣である。

38.笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である。

41.人間はすべて、文明が進めば進むほど俳優になっていく。
つまり、人間は他人に対する尊敬と好意、典雅と無私の風を装うが、それにたぶらかされる人はいない。







★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

哲学者カントには「教育者」「規則正しい人」「独身主義者」「趣味人」そして「人種論者」の側面があったようです。

★★★★★「規則正しい人」

「カントの時計」は有名で「散歩の時間も極めて正確で、人々はカントの姿を見て時計の針を直していた。」 とも言われています。



『 草枕 』夏目漱石
山路を登りながら、こう考えた。・・・
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。
どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。・・・



カントも散歩しながら「批判=~について考える」をしていたのだと思います。
ですから「ケーニヒスベルクの橋」問題でも、同じ橋(離れた領域を繋ぐもの)を繰り返し渡ったかも知れません。







★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

★★★★★「教育者カント」

06.人は人によりてのみ人となり得べし、人より教育の結果を取り除けば無とならん。

11.教育は、人間に課すことのできる最も大きい、難しい問題である。

26.自分のふるまいにおいて、自分をより重要な人間とひきくらべてその仕方を『模倣する』ということは、人間の自然な性癖である。

★★★★★「独身主義者」

カントは、女性と距離を置き、積極的な求婚をしなかったためだとされていますが、仕事に忙殺されていた可能性も否めません。

03.妻は夫を支配する、夫は妻を統治する。

18.真面目な恋ほど、寡黙であり、愛想がない。

30.女は自分の前を通ったよその婦人の眼が自分を注目したか、いなかを直感的に悟る術を心得ている。
女が身を飾るのは、ほかの女たちを意識しているからである。

36.真面目に恋をする男は、恋人の前では困惑したり拙劣であり、愛嬌もろくにないものである。

★★★★★「趣味人」

"Immanuel Kant and Guests" Emil Doerstling (1892/93)

01.笑いは消化を助ける。胃散よりはるかに効く。

16.疑う余地のない純粋の歓びの一つは、勤勉の後の休息である。

19.真の人間性に最もよく調和する愉しみは、よき仲間との愉しい食事である。

24.酒は口を軽快にする。
だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。
こうして酒はひとつの道徳的性質、つまり心の率直さを運ぶ物質である。

34.最も平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である。

50.友情関係は同等関係である。

★★★★★「人種論者」

「暑い国々の人間はあらゆる点で成熟が早めではあるが、温帯の人間のような完全性にまで到達することはない。

人類がその最大の完全性に到達するのは白色人種によってなのである。

すでに黄色のインド人であっても、才能はもっと劣っている。

ニグロははるかに低くて、最も低いのはアメリカ原住民の一部である。・・・」 ★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

人種論

カントは現代の国際的な自由主義の発展に多大な貢献をしたことでも知られているが、他方で近年は、カントの人種理論(人種学)には白人至上主義などの問題点を指摘されており、科学的人種主義の父祖の一人とみなされている。

カントは1764年の『美と崇高との感情性に関する観察』において、アフリカの黒人と白人種との差異は本質的な差異であると論じている。

このようにカントは多くの著作で白人優位主義を述べており、そこにイデオロギー的な意図があったわけではないにせよ、カントは明確に白人優位主義を述べる人種主義者であり、人種差別的な限界があると指摘されている。

 イマヌエル・カント『自然地理学』第2部第1編第4節 「その他の生得的な特性に即した地球全体の人間に関する考察」

もしカントが、アメリカ先住民と一緒に暮らした経験があり、友人となっていたなら、どう発言していたか?

『経験有無の壁』は乗り越えられないものと思えます。

三百年前という時代の壁、世界の扉の一部は閉じられていたかも知れません。



★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

イマヌエル・カントの名言格言57選( 再掲載 )


01.笑いは消化を助ける。胃散よりはるかに効く。

02.科学とは体系化された知識で、知恵とは整理された生活である。

03.妻は夫を支配する、夫は妻を統治する。

04.汝の意志の規律が、いつの場合でも、一般に立法の原理として適用できるように行動せよ。

05.暗黒のなかでは、我々の想像力は、明るい光におけるよりもたくましく働くのを常とする。

06.人は人によりてのみ人となり得べし、人より教育の結果を取り除けば無とならん。

07.モードはいかなる内的価値もない。

08.内容のない思考は空虚であり、概念のない直観は盲目である。

09.我が行いを見習えと、誰にでも言い得るよう行為せよ。

10.高慢な人は常に心の底では卑劣である。

11.教育は、人間に課すことのできる最も大きい、難しい問題である。

12.いかなるときも、自分の選択の原理が、一般の原理に適用できるよう、行動せよ。

13.苦悩は活動への拍車である。そして活動の中にのみ我々は我々の生命を感じる。

14.われわれは奴隷のように社会のモードに従うだけだ。

15.宗教とは、我々の義務のすべてを神の命令とみなすことである。

16.疑う余地のない純粋の歓びの一つは、勤勉の後の休息である。

17. 1.私は何をすることができるか。
2.私は何を為すべきであるか。
3.私は何を希望してよいか。
4.人間とは何であるか。
第一の問いに答えるのは形而上学であり、
第二の問いには道徳、
第三の問いには宗教、
第四の問いには人間論が答える。
結局これらすべては人間論に含ませてよいであろう。

18.真面目な恋ほど、寡黙であり、愛想がない。

19.真の人間性に最もよく調和する愉しみは、よき仲間との愉しい食事である。

20.自由とは、すべての特権を有効に発揮させる特権である。

21.あらゆる事物は価値を持っているが、人間は尊厳を有している。
人間は、決して目的のための手段にされてはならない。

22.ああ、いかに感嘆しても感嘆しきれぬものは、天上の星の輝きと我が心の内なる道徳律!

23.崇高なものは我々を感動させ、美しいものは我々を魅了する。森は、夜崇高であり、昼美しい。

24.酒は口を軽快にする。
だが、酒はさらに心を打ち明けさせる。
こうして酒はひとつの道徳的性質、つまり心の率直さを運ぶ物質である。

25.モードは他の優れた人を模倣しようとする法則である。

26.自分のふるまいにおいて、自分をより重要な人間とひきくらべてその仕方を『模倣する』ということは、人間の自然な性癖である。

27.善行は、これを他人に施すものではない。
これをもって自分自身の義務を済ますのである。

28.互いに自由を妨げない範囲において、我が自由を拡張すること、これが自由の法則である。

29.哲学の義務は、誤解によって生じた幻想を除去することである。

30.女は自分の前を通ったよその婦人の眼が自分を注目したか、いなかを直感的に悟る術を心得ている。
女が身を飾るのは、ほかの女たちを意識しているからである。

31.成功に至る第一歩は、自分が心で何を望んでいるかを見つけ出すことです。
それがはっきり分からないうちは、何を期待しても駄目でしょう。

32.人が財産を使うに際しては、慎重さとためらいとがある。
それは善行ではないし、手腕も能力も必要とはしない。

33.我々は動物の扱い方によって、その人の心を判断することができる。

34.最も平安な、そして純粋な喜びの一つは、労働をした後の休息である。

35.何度も繰り返し長い時間をかけて考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬とで心をみたすものが二つある。
私の上なる星空と私の内なる道徳法則とである。

36.真面目に恋をする男は、恋人の前では困惑したり拙劣であり、愛嬌もろくにないものである。

37.あらゆる宗教は道徳をその前提とする。

38.笑いとは張り詰められていた予期が突如として無に変わることから起こる情緒である。

39.それを考えることしばしばにしてかつ長ければ長いほど常に新たにして増し来る感嘆と尊厳とを以って心を充たすものが二つある。
それはわが上なる星の輝く空とわが内なる道徳律である。

40.われより哲学を学ぶべきにあらず、哲学することを学べ。

41.人間はすべて、文明が進めば進むほど俳優になっていく。
つまり、人間は他人に対する尊敬と好意、典雅と無私の風を装うが、それにたぶらかされる人はいない。

42.すべての知識は経験に基づく。

43.われは孤独である。われは自由である。われはわれみずからの王である。

44.民主政治は専制政体と変わらない。
なぜならば、民主政治とは全員がひとりの意志を無視し、時にはこれに逆らって議決し得る。
という全員ならぬ全員が、議決し得る執行権を認めるからである。

45.天才は生得の心の素質であり、これによって自然は芸術に規則を与える。

46.大自然の秩序は宇宙の建築家の存在を立証する。

47.啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。

48.法律においては、他人の権利を侵害する時には罰せられる。
道徳においては、侵害しようと考えるだけで罪である。

49.静かに考えるほど、湧き上がるものがあろう。
我が頭の上の天文と、我が心の中の道徳である。

50.友情関係は同等関係である。

51.われわれは、光のもとで暗闇を、幸福のもとで悲惨を、満足のもとで苦痛を思い起こすことはまれである。
しかし、その逆はいつもである。

52.努力によって得られる習慣だけが善である。

53.苦しみこそが、活動の原動力である。
活動の中にこそ、我々は生命を感じる。

54.哲学は学べない。学べるのは哲学することだけである。

55.美には客観的な原理はない。

56.歴史的意味においてでないかぎり哲学を学ぶということはできない。
かえって理性に関しては、哲学的思索をすることを学び得るばかりである。

57.徳にとってまず要求されることは、自己自身を支配することである。



純粋理性批判:エマニェル・カント

 

ケーニヒスベルクにおけるカントの眼差し:北 條 慈 応

 

inserted by FC2 system