鄧小平の失脚と復帰の歴史          


中華人民共和国成立後の半世紀の紙幣デザインを見てきました。

紙幣デザインとして、農民、労働者が農工業に従事する図柄が選ばれてきました。
また、多民族国家として、各民族の姿を取り上げる図柄もありました。

しかし、中国人民銀行券第3版以降、特定の人物の図柄に取って代わられました。
1980年の事です。その紙幣デザインは、四人の横顔のレリーフです。
左から、朱徳、劉少奇、周恩来、毛沢東の四人です。
1980年、これは、鄧小平が最高権力者となった1978年の後となります。

では、なぜ鄧小平は、この四人を紙幣デザインとして取り上げたのか?
この疑問から、鄧小平の失脚と復帰の歴史を見ていきたいと思います。

毛沢東と朱徳、この二人は、刎頸の交わりと言われる間柄で、まず外せない二人です。
そして、毛沢東は、鄧小平の失脚に際しても、「あれはまだ使える」として完全に抹殺することはありませんでした。
また、朱徳は鄧小平と同じく四川省出身:客家出身で、郷土の先輩でもあります。
周恩来は、鄧小平に復帰の機会を与えてくれた恩人です。
劉少奇は、大躍進政策の破綻以降に、ともに立て直しに尽力した仲間です。

朱徳 :1886年~1976年:四川省出身:客家出身:ドイツ留学

毛沢東:1893年~1976年:湖南省出身

劉少奇:1898年~1969年:湖南省出身:ソ連留学

周恩来:1898年~1976年:江蘇省出身:日本留学

鄧小平:1904年~1997年:四川省出身:客家出身:フランス:ソ連留学


1.毛沢東の時代:中華人民共和国成立を宣言:1949年10月1日

  中央人民政府主席:初代国家主席~1959年

2.大躍進政策:1958年5月~1961年1月( 大飢饉で多数の死者を出し終息 )

3.大躍進政策終結~文化大革命まで:劉少奇:第二代国家主席:1959年~1968年

劉少奇:1969年死去

4.文化大革命:1966年~1976年:周恩来:1976年死去

毛沢東:1976年9月9日死去

5.鄧小平の時代:改革開放政策:1978年~1989年

1997年: 鄧小平死去



中国人民銀行券第3版

左から、朱徳、劉少奇、周恩来、毛沢東の四人



鄧小平死去後の中国人民銀行券第5版(1999年)では、毛沢東単独です。





[昭和53年10月] 中日ニュース No.1293_2「日中新時代スタート -鄧小平副首相来日-」



改革開放40年:鄧小平究竟給今日中國留下什麼 - BBC News 中文





★★ 0.中華人民共和国成立前:フランス留学、ソ連への留学と帰国後

1931年、毛沢東率いる江西ソヴィエトに合流するも、コミンテルンの指令に忠実な多数派のソ連留学組により、農村でのゲリラ戦を重視する毛沢東路線に従う鄧小平は失脚する。(★第一回目の失脚)。

1935年1月、周恩来の助力で中央秘書長に復帰する。

★★ 1.毛沢東の時代:中華人民共和国成立を宣言:1949年10月1日

  中央人民政府主席:初代国家主席~1959年

1952年8月、毛沢東により政務院副総理に任命され、財政部長(大臣)も兼任する。
1955年4月、第7期5中全会)において中央政治局委員に選出される。
1956年9月、第9期1中全会で党中央政治局常務委員に選出され党内序列6位となり、中央書記処総書記として、党の日常業務を統括する立場となる。

★★ 2.大躍進政策:1958年5月~61年1月

大飢饉で多数の死者を出し終息)

★★ 3.大躍進政策終結~文化大革命:劉少奇:第二代国家主席:1959年~68年

劉少奇:1969年死去

鄧小平は毛沢東の指揮した大躍進政策の失敗以降次第に彼との対立を深めていく。
大躍進政策失敗の責任を取り毛沢東が政務の第一線を退いた後、総書記の鄧小平は国家主席の劉少奇と共に経済の立て直しに従事する。

★★ 4.文化大革命:四人組:1966年~77年:周恩来:1976年死去

毛沢東:1976年9月9日死去

鄧小平は一定の成果を挙げていったが、毛沢東はこれを「革命の否定」と捉えた。
その結果1966年5月の文化大革命の勃発以降は「劉少奇主席に次ぐ党内第2の走資派」と批判されて権力を失うことになる。
1968年年10月に全役職を追われ、江西省南昌に追放される。(★第二回目の失脚)。

1973年3月、周恩来の復活工作が功を奏し、鄧小平は党の活動と国務院副総理の職務に復活し、病身の周恩来を補佐して経済の立て直しに着手する。

着々と失脚以前の地位を取り戻して行ったかに見えたが、1976年1月8日に周恩来が没すると、鄧小平の運命は暗転する。
江青ら四人組が率いる武装警察や民兵が、天安門広場で行われていた周恩来追悼デモを弾圧(1976年4月:第一次天安門事件)。
するとデモは反革命動乱と認定され、鄧小平はこのデモの首謀者とされて再び失脚し、全ての職務を剥奪される。(★第三回目の失脚)

1976年9月9日、毛沢東が死去すると、後継者の華国鋒を支持して職務復帰を希望し、四人組の逮捕後の19777年7月に三度目の復活を果たす。
1977年7月の第10期3中全会において、党副主席、国務院常務副総理、中央軍事委員会副主席兼人民解放軍総参謀長に正式に復帰する。
1978年8月に開催された第11回党大会において、文化大革命の終了が宣言される。
鄧小平は文革で混乱した人民解放軍の整理に着手、科学技術と教育の再建にも取り組む。

★★ 5.鄧小平の時代:改革開放政策:1978年~89年

1978年11月の党中央工作会議と、第11期3中全会で文化大革命が否定される。

「社会主義近代化建設への移行」すなわち改革開放路線の決定と歴史的な政策転換が図られ、この時に最高指導者となる。
また、第一次天安門事件の再評価が行われ、周恩来の追悼デモは四人組に反対する「偉大な革命的大衆運動」とされる。
鄧小平はこの会議で中心的なリーダーシップを発揮し、事実上党の実権を掌握する。

北京には「民主の壁」とよばれる掲示板が現れ、人民による自由な発言が書き込まれたが、その多くは現行の華国鋒体制を批判し、鄧小平を支持するものである。
華国鋒は追いつめられ、1978年の党中央工作会議で、毛沢東路線を自己批判せざるを得なくなり、党内における指導力を失う。
最終的に華国鋒は1981年6月の第11期6中全会で党中央委員会主席兼中央軍事委員会主席を解任され、胡耀邦が党主席に就任し、鄧小平が党中央軍事委員会主席に就任する。
1980年9月に鄧小平の信頼が厚い趙紫陽が国務院総理(首相)に就任しており、ここに鄧小平体制が確立する。

生涯に三度の失脚(奇しくもうち二回は学生が起こした暴動が一因)を味わったためか、鄧小平は中国共産党の指導性をゆるがす動きには厳しい態度で臨み、1989年6月の第二次天安門事件で学生運動の武力弾圧に踏み切る。

この事件について、当初、趙紫陽総書記などが学生運動に理解を示したのに対し、軍部を掌握していた鄧小平が陳雲・李先念ら長老や李鵬国務院総理らの強硬路線を支持し、最終的に中国人民解放軍による武力弾圧を決断した、とされる。

鄧小平は武力弾圧に反対した趙紫陽の解任を決定し、武力弾圧に理解を示し、上海における学生デモの処理を評価された江沢民を党総書記へ抜擢し、1989年11月には党中央軍事委員会主席の職も江沢民に譲る。

第二次天安門事件後には一切の役職を退くが、以後もカリスマ的な影響力を持つ。
影響力を未だ維持していた鄧小平は、1992年の春節にかけて、深圳や上海などを視察し、南巡講話を発表する。

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