ニコライ・イワノヴィッチ・コストマーロフ |
ニコライ・イワノヴィッチ・コストマーロフ( 生誕:1817年5月16日 右:ウクライナの切手 )
コストマーロフは、帝政ロシア時代の「ロシア史」の研究者です。同世代の人物には以下のような人々がいます。 1811年:佐久間象山 1820年:清水次郎長 1823年:勝海舟 1827年:ジョン万次郎 1828年:西郷隆盛 彼は、東スラブの民間伝承の専門家で、歴史上民族誌と民謡を使用した最初のロシアの歴史家で、これによりいわゆる「国民精神」など人々の「精神」を見極めようとしました。 彼らの民謡と歴史に基づき、ルーシの民に二つのタイプがあるという考えを提唱しました。 一つは、彼が北ロシア人と呼んだノヴゴロド地方を基盤とする人々で、彼は、北ロシア人をロシア国家の政治的覇権国として見ていました。 もう一つは、彼が南ロシア人と呼んだドニエプル盆地、キエフを基盤とする人々です。 彼は、北ロシア人または大ルーシと呼ばれる人々(ロシア人)と、南ロシア人またはリトルルーシ(ウクライナ人)と呼ばれる人々の性格が異なり、二つの別の国民性が形成されたと述べています。 ナロドニク思想史のランドマーク的存在である有名なエッセイ『二つのロシア民族』の中で、彼は独裁、集団主義、国家建設に傾倒したロシア人と、自由と個人主義に傾倒したウクライナ人の二つがある、との考えを述べており、ロシア帝国におけるルーシの人々の心理的多様性の問題に関する彼の記述は、東ヨーロッパにおける集団心理学の科学的研究に影響を与えたと言われています。 また、学説上の論争として、彼と同じ親ウクライナ派の仲間であるミハイル・ポゴディンとの論争があります。 彼は、ポゴディンとの間で、「ルーシ」という言葉の言語学的および民族誌的起源に関して長年の議論を展開してきました。 ポゴディンは最初のルーシの人々が現在のスウェーデンの地域のロスラーゲンから来たと主張し、ヴァリャーグからギリシアへの交易路に関して、ルーシ族ととスカンジナビアを結びつけました。 この議論は、ロシアにおける二つの異なる歴史学派、いわゆる「ノルマン主義者」と「反ノルマン主義者」にも影響を与えました。 国家は独立して生活していた人々から構成されてきた、という彼の歴史観は、帝政ロシアとは相容れず、反逆罪などの罪に問われ、著作の刊行が禁じられるなどの挫折も有りましたが、彼は研究を続行し、大学での講義も盛況を極め、大衆にも支持されました。 しかし、モスクワの「反動的」新聞雑誌の攻撃により、彼の政治的な信頼性が疑われる事態の下、各大学からの招聘にも断らざるを得ない状況となって、やむなく文芸活動、古文書研究へと向かうこととなりました。 振り返って見ると、コストマーロフという人物の中で、歴史家、思想家、芸術家が、幸運にも合体したことで、彼はロシア歴史家の中でも最高の地位の一つを獲得したのみならず、読書大衆において最大の人気を確実なものとしたのであった、とされています。 コストマーロフについては、彼より15歳年下のロシア歴史協会(1865年創設)の創設の創始者:アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ポロフツォフが論説をしています。 [ ニコライ・イワノヴィッチ・コストマーロフ ] 以下の記事には、コストマーロフの記述が掲載されています。(★印で囲われた箇所) ★★★★★★★★★★ 地上最大の国ロシアは、近代にかけて大幅に版図を拡大した。ロシアは、合意の上で周辺国を併合して領土を広げることもあれば、武力を行使することもあった。ロシアが特に苦戦を強いられて長期化し、多くの犠牲者を出した征服戦争を取り上げる。(アレクセイ・ティモフェイチェフ) ポーランドとの紛争『プラハの殺戮』 17世紀の初めにはポーランドの部隊がクレムリンを占領し、ポーランド王がロシアの皇位獲得を図ったが、次の世紀には状況は劇的に変わった。ポーランド=リトアニア共和国は、恒常的な内政の不安定さが原因でかなり弱体化し、ロシアを含め外国勢力に容易に干渉されるようになった。 ロシア政府は、ポーランド貴族内の強力な親ロシア勢力を当てにしていたため、概ね現状維持を望んでいた。しかし、ポーランドの他の強大な隣国であるプロイセンとオーストリアはポーランドの分割を執拗に要求しており、1772年にエカチェリーナ2世は圧力に屈した。 分割は持続的な解決策ではあり得なかった。政情不安は第二次分割につながり、1794年には、アメリカ独立戦争にも参加した有名なポーランド人将軍、タデウシュ・コシチュシュコが指導する強大なポーランド蜂起が勃発した。現代の歴史家、アンドレイ・ブロフスキーがその著書で述べているように、ヨーロッパの3つの強国の挑戦を受けたポーランドは、大人の大男たちと対面した十代の子供のようだった。 コシチュシュコの蜂起が始まった頃、ある出来事がロシア人を憤慨させた。それは、ロシア政府がポーランドの内紛に武力干渉した後にポーランドの首都ワルシャワに駐屯していたロシア人警備隊の運命に関わることであった。1794年4月、イースターの前の洗足木曜日に起きた、いわゆる“ワルシャワの朝の礼拝”だ。ワルシャワのポーランド人がロシア人警備隊の一部を虐殺したのだ。「ポーランド人は、ロシア人がいる可能性のあるあらゆる場所へ駆けて行った。ロシア人を見つけると殺害した。殺されたのはロシア人だけではなかった。群衆の中にいる誰かのことを親ロシア派だと言うだけで十分だった。名指された者は殺された。」19世紀の歴史家、ニコライ・コストマーロフはそう記している。多くの人は武器も持たずに教会で殺害された。総じて約2200人の兵士と将校が虐殺された。イースターには、ヴィルノ(現在のリトアニアのヴィリニュス)で同様の虐殺事件が起きた。 蜂起を鎮圧するため、エカチェリーナ2世は、最も秀でた司令官、アレクサンドル・スヴォロフを召喚した。彼の部隊は反乱者たちに数で劣っていたものの、彼らを制圧し、ワルシャワを占領した。スヴォロフの部隊は首都全体を陥れたわけではなく、地区の一つを制圧しただけだったが、兵士たちは4月の事件の復讐に燃えていたため、多くの犠牲者が出た。蜂起の鎮圧後、3度目かつ最後の分割が行われ、ポーランドの国家としての地位は100年以上にわたって失われることとなった。続く18世紀には、国家を回復しようとするポーランド人の武装蜂起が頻発し、ロシア帝国政権にとって恒常的な不安要素となった。
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